民謡は難しくないし、古臭くない!日本に伝わる民謡を一曲ずつ解説していきます。第21弾は鹿児島県民謡、「鹿児島小原節」。
「おばら」ではなく「おはら」と読みます。江戸時代から演奏されてきた鹿児島県の代表的な民謡で、ちょっとコミカルな歌詞と、九州の勇壮さが相まった聞きごたえのある一曲です。ぜひ現地で聞いてみたいですね。
児玉宝謹の寸評
イベント唄2/3曲目、鹿児島小原節です。
これも盆踊りに無くてはならない一曲ですね~ 踊りの方向も、大抵は反時計回りなのに対して、この曲とデカンショ節のみ時計回りに回ります。
それは平安時代からこの地を治めていた島津独特の地域性、特異性・・・歌詞やお囃子にも出てくる方言さえ、関ヶ原以降、強制的に作り変えられたとか、かの参勤交代では日本一移動距離の長い大名行列であったとか、将軍家にお輿入れした篤姫を排出しておきながら倒幕という時代の変遷を司ったであるとか、そもそも島津の家紋の十文字はキリスト?とか。
もう数え上げたらきりがないほど、
ヤバ個性的でありますw
歌詞を読んでみよう
花は霧島 煙草は国分 燃えて上がるは「オハラハ」桜島(ハ ヨイヨイ ヨイヤサ)
見えた見えたよ 松原越しに 丸に十の字の「 」帆が見えた
#今来た青年(にせどん) 好青年(よかにせどん) 相談かけたら はっちこそうな青年(にせどん) ( )
桜島には 霞がかかる 私ゃおはんに 「 」気がかかる( )
雨の降らんのに 草牟田川(そんたがわ)濁る 伊敷原良(いしきはらら)の「 」化粧の水
#段々畑の莢豆は ひと莢走れば みな走る 私ゃおはんに ついて走る( )
可愛いがられて 寝た夜もござる 泣いて明かした「 」夜もござる( )
月のちょいと出を 夜明けと思うて 様を返して「 」気にかかる( )
桜島から 吹き来る風は 青しミカンの「 」香(かざ)がする( )
西郷隆盛ゃ 話せる男 花のふぶきに「 」濡れて立つ( )
焼酎は千杯(せんべ)飲め 大釜(うがま)で沸かせ 下戸の建てたる「 」家はない( )「 」蝿取い(へとい)姿( )
好かん殿御(とのじょ)を 八畳敷(はっじょうじく)すえて 見れば蛙(どんこ)どんの
詳しい解説
鹿児島県民謡。
鹿児島小原節の成立については二説ある。一つ、慶長14年(1609)薩摩が琉球に進めた兵の中に、都城城主北郷忠能の率いる安久(やっさ)の郷士120名がおり、彼らが郷里の安久節の節回しで琉球城攻略を唄って陣中に広めた。
“安久田辺々々 尻を高く捲れ(しゆたこつぶれ) 前は沼田(ぬただ)で 深うござる
安久武士なら 枕はいらぬ たがいちがいの 腕まくら“
前者は琉球城を前にして沼田で難渋した様子、後者は露営の様子。この安久節が城下の侍たちによって鹿児島に移入されたのが鹿児島小原節であるという説。実はこれは従来説で信憑性に欠ける。
もう一つは、都城を含む大隅各地の農村で古くから唄われていた「ヤッサ節」が鹿児島城下に定着したという説。現在はこちらの説が有力である。当時「ヤッサ節」は、伊敷原良の娘たちが殿様の狩り宿で奉納したり、城下の人々による春季彼岸の霧島参りの折りに唄われたりした。
大正期には名手16名の芸妓の名を取って「十六節」などとも呼ばれていたが、昭和8~9年、中山晋平編曲、新橋喜代三の唄でレコード化した際に「鹿児島小原節」と名付けられた。現在全国的に唄われているのはこの喜代三節と呼ばれる二上りで速いテンポの賑やかなものだが、一方で三下りの多少ゆっくりと弾みのない「古調ヤッサ節調」もある。
演奏のポイント
お三味線の伴奏形態は「単一反復型」です。因みに、盆踊りというのは、踊りの型も「単一反復型」です。こうなると変化を付けられるのは、九州炭坑節でも申しました「櫓太鼓のセンス」しかありません。
僕もイベントでこの曲が出た時は、如何に場を飽きさせず、もちろん面白く、しかしループの盛り上がり効果も含みつつといった、それこそ「センス」を、他のどの曲よりも練って投入します!いわば、腕の見せ所な曲。
さぁ我と思わんお方、ドンドン乗り越えて行って下さいね~!