民謡は難しくないし、古臭くない! 日本に伝わる民謡を一曲ずつ解説していきます。
「北海道シリーズ全10曲」2曲目は、江差追分。
数ある民謡中、更に日本三大民謡の一つで、その中でも王者!そして世界にも誇れる大民謡です♪
児玉宝謹の寸評
北海道シリーズを50音順にしようと思った時、この王者ともいえる江差追分が、結構最初のほうで登場することになるので、ちょっと戸惑ったのですが・・・ま、いっかと(笑)
いや、それほどこの民謡の価値は、物凄いものがあるのです! 世界中見回しても類例が無いかもしれません。
先ず、長い! 1コーラスが三部構成で、所要時間は優に5分を超え10分にさえ迫るほどです。その長さは、単に楽曲の尺だけではなく、息も続かないとダメなわけで・・・
次に、歌詞が多い! これは日本民謡界で「大民謡」を名乗るにあたり必須事項とされるのですが、上記のように1コーラスで既に三部構成となっているのですから、フツーに数えても他の民謡と比べて三倍ですもんね。
そして、難しい! 津軽民謡のようなパワーゲームではない、といってしっとり唄えば良いというものでもない。知り合いの民謡名人さんが、優勝するのに10年かかったそうですからね!
っとまぁ、筆舌に尽くし難い、チョー高難度な、北海道が世界に誇る民謡なのであります。
長くなって恐縮ですが、毎年、江差追分全国大会が催されるのですが、優勝者に送られる賞金はともかく、副賞のまぁ質量共に物凄いこと! あんなに沢山、一般の一軒家では絶対に収まりませんからね! それくらい、現地の方々の思い入れも、民謡そのもののクオリティも、自他ともに認めるものがあるのであります。
歌詞を読んでみよう
前唄
(ハーッソイ)(ソイーッ ソイ)松前江差の(ソイ) 津花の浜で「ヤンサノエ」(ソイ)
好いた同士の 泣き別れ(ソイ)
連れて行く氣は やまやまなれど「ネ」(ソイ) 女通さぬ 場所がある
本唄
(ハーッソイ)(ソイーッ ソイ)カモメの( ) 鳴く音に( ) ふと目を( )覚まし
(ソイーッ ソイ)あれが( ) 蝦夷地の( ) 山かいな( )
後唄
蝦夷は雪国 さぞ寒かろよ「ネ」(ソイ) 早くご無事で 戻りゃんせ
前)国をはなれて蝦夷地が島へ「 」幾夜寝覚めの波枕 朝な夕なに聞こえるものは「 」友呼ぶ鴎と波の音
本)忍路高島 およびもないが せめて歌棄 磯谷まで
後)蝦夷地海路のお神威様は「 」なぜに女の足止める
前)波は磯辺に寄せては返す「 」沖は荒れだよ船頭さん 今宵一夜で話しは尽きぬ「 」明日の出船を延ばしゃんせ
本)泣いたと○て○ どうせ行く人 やらねばならぬ せめて波風おだやかに
後)泣くなといわれりゃ 猶せきあげて「 」なかずにおらりょか浜千鳥
前)大島小島の間(あい)とる船は「 」江差通いか懐かしや 北山おろして行き先曇る「 」面舵たのむよ船頭さん
本)沖をながめて ほろりと涙 空飛ぶカモメが 懐かしや
後)主は奥場所 わしゃ中場所で「 」別れ別れの風が吹く
前)遠い蝦夷地に思いを馳せて「 」くずれ岬も越えたのに 愛の磯舟しぶきにぬれて「 」はかないえにしを泣く乙女
本)落ちる涙で 櫓づながきしむ 主のかたみか瓶子岩
後)今も変わらぬカモメの声は「 」せめて一夜の名残をと
前唄のその他:
空をながめてほろりと涙「 」あの星辺りか蝦夷が島 逢いたい見たいはやまやまなれど「 」悲しや浮世はままならぬ
荒い波風もとより覚悟「 」乗り出す船は浮世丸 西か東か身は白波の「 」ただよう海原はてもない
後唄のその他:月をかすめて千鳥が鳴けば「 」波もむせぶか蝦夷の海
詳しい解説
北海道民謡。
蝦夷と呼ばれた北海道は、先住民族アイヌの別天地であり、本土人にとっては異国であった。最初に和人が歩を印したのは斉明天皇4年(658)阿倍比羅夫の蝦夷討伐で、皇紀2600年の歴史からすると1300年以上も往来がなかったことになる。この討伐は3ヶ年3回に亘って続き、その後は朝廷に貢物を送るという形で本土との交流が続くことになった。とはいえ、波風荒い海を手造りの小さな船で航行し、更に現在の奈良県まで到達するなど全くの命がけ、細々とした往来であったろう。
時代は下って文治5年(1189)源義経が兄頼朝の討ち手に攻められて平泉で討ち死にした折りの文献に、「藤原氏家臣の者多数蝦夷地に逃れ、江差松前付近に群居す。後にこれを渡党(わたり)と呼ぶ」とあるから、その頃になって漸く北海道に本土人が住むようになったと思われる。
即ち、今や北海道のみならず日本の代表的民謡となったこの江差追分は、蝦夷人のものではなく、本土との往来が頻繁になる江戸時代以降に、本土人によって持ち込まれた民謡なのである。追分の発祥は長野県小諸で、越後追分、酒田追分、本荘追分と形を変えながら北海道に渡った。当初は江差三下りといい、それに松崎謙良編曲の伊勢松坂くずしが越後に移って謙良節として唄われたものが江差に入って加わり、この2つを母体としながら、江差追分の始祖といわれる「佐ノ市」によって、追分の原型が出来上がった。佐ノ市は美声の座頭で、“恋の道にも追分あらば こんな迷いは狭いもの”と唄い、江差の町を門付けして歩いた。
その後、唄われる地方や流派によって、江差追分、松前追分、新地追分、五勝手追分、上ノ国追分など色々に呼ばれた時期があったが、やがて尺八の平野源三郎や名人高野小次郎、越中谷四郎などをはじめとする全道の民謡家によって、演唱の仕方などを一本化する努力の末に、その体裁を整えた。前唄を最初につけたのは大正3年三浦為七郎で、後唄は同8年頃、誰ということなく唄うようになったらしい。正調江差追分の本唄は、7節7声を2分20~25秒で唄い終わるものとしている。
多くの民謡家の苦心と努力で、「情・心・技」共に完成の域に達した感があり、磯節、博多節と並ぶ日本三大民謡の一つとなったが、有識者曰く「単なる技巧比べや声比べに堕することなく、追分節本来の唄の心を確りと理解して演唱してほしい」と願われている。
演奏のポイント
お唄、お囃子、尺八のトリオです。で、ポイントと言いましてもねぇ(苦笑) んー、とにかく高難度。近道はございません。せめて一つだけ言うならば、決して大声を張り上げないこと。音量的にはメゾピアノで一定してます。これはお唄もお囃子も尺八も共通です!
10年かかった知り合いの方は、ひたすら現地に通い続け「見て聴いて盗む」を繰り返したそうですし、もうお一方曰くは「平生の努力はもちろん欠かせないが、江差の海を見下ろす峠に立つと、本当に”かもめ~”という感じがして、本州しかも関西の街中でいくらお稽古したところで敵わないと、骨の髄まで思い知らされた」とも語っておられます。
そうしてみると、アイヌ人ではないとかそういう事は抜きにしても、解説にもあるように、郷土民謡という芸能文化をよくそこまで醸成し続けたものだと、関わられた方々のご尽力に感服するのであります。日本一を目指さすのは常人の域を超えたレベルですが、そこまでいかなくとも、この曲へのリスペクトと愛で以て取り組まれるにしくはなしと、思うのであります。